Happy 100th Birthday, Mr. Robert Johnson - 8 May 2011

1911年生まれで百歳。といえば日野原重明先生。
百歳だがとても身近。
岡本太郎はやや懐かしいが、実物を拝見した記憶とかテレビとかで見たせいでよく知ってる(た)という部類。まだイメージ、記憶が風化してない(私の中ではですが)。
これが、灰田勝彦藤山一郎となると、岡本太郎はその人の印象や思いを語ることができるが、本多猪四郎吉村公三郎など作品を通して人となりを思い描けるような感じじゃなく、古い雑誌の切り抜きのくらいの存在ってくらい遠くなる。


森雅之加東大介北林谷栄花森安治グレート東郷も百歳。調べた。
おおよそ戦前から敗戦から60年代までに活躍したくくりになろうかと。こうなるとリアルタイムでみたり聴いたりした記憶はないから、かろうじて同じ空気を吸ったかもしれない程度にまで遠のく(北林谷栄は除かねばいけないけど)。


おいらがガキだった頃、年寄りはみな明治生まれだった。大正生まれはまだ若い年寄りであって、癖の強い明治生まれがたくさん周りにいた。
1911年は明治44年だから、ぎりぎりの明治生まれになる。だいたいこの人たちの両親が明治10年代の生まれの勘定とすれば、ギョーム・アポリネールと同世代(ヴァージニア・ウルフでも夢野久作でも斎藤茂吉でも)というわけである。
なので、どう考えても子供の頃に接した明治生まれのじじぃには、理屈抜きで人間の出来具合が根底から違うとおもわせる頑固さと理不尽さがあった。昭和の現代っ子なんぞの話などまともに聴こうとする態度などない。のだが、昭和のガキと明治生まれの年寄りとはなぜかウマが合うところがあった。


個人的な感想なのでそんなことはないという向きもあるだろう。ただ、熱っぽい明治という近代化の空気で半分に薄められたとはいえ、「近代以前」のようなもはや想像もできない空気が混じっている母乳を飲んで育った彼らは、やはり日本人として別種だった。子供にあわせるのも首根っこを押さえるのもさじ加減は自在だった。と思う。
今思えば核家族を選択した昭和生まれの親と子供間の摩擦は避けようがない必然的なものであり、以降子供と親は繰り返し反発しあうはめになるのだが、敗戦後の昭和を生きている明治生まれには、なんとでも決着のつけようがある程度の問題で、個人、家族ひいては自分のこと(つまりは他人)なのだから、口も出さないし困っても悩んでも助けたりなどしない。諭すことさえしなかった。その態度は周りの子供がなにをしようとかまわないという点でも筋を通した(子供も他人のうちに入れるのが原則)。したがって子供だからといって甘やかされないし許されないことは大人と区別なし、これも原則。


私の中にある明治生まれの年寄りは、それは「超然」という形容があてはまる。
あくまで、子供だから、年寄りと子供の関係だから言えることかもしれないと、今は思うが。


私が最後に接した明治生まれの人物は宮川寅雄ということになりそうだが。まともな学生じゃなかったくせに常に懐かしい先生である。そして大正3年生まれだが明治のにおいが濃厚だった西順蔵先生か。
荘子」の講義をされてた西先生はそれはもう超然としか言いようがなかった。
西先生は亡くなるとき病床で煙草を一服されてから「もういいよ」と言われた。という伝説がある。
和光大の学生の中でも先生の授業(ゼミ生も入れて4人ほどだった)をとってた最後の学生だけが聞いた話である。ほんとかどうか知らない。確かめようもないがその必要もない。
大学4年の時だった。漠然と死に方を思った。あの先生は自分で死んだのかと。


そういう人がみな100歳。
もう日本にはいなくなる。