8月の炎天下に、クルッてるだろ。

そう。私はキライだ。なにがって、高校野球の夏の全国選手権が。

はっきりいって、大嫌いである。夏の甲子園大会とかいうもののすべてが。
春の大会はまぁいい。トーナメントによる選抜代表選手権がシーズン開始とともにやるのは理解し難いが。

・・・にしても、たかが地区代表をなぜ全て集めるのか訳がわからない。40以上の参加チームで1箇所集中開催などというのが、まず信じられない。ここが狂っているから、大会そのものが異様なものになる。なぜ会場がたった一つしかないのか。無理の無いスケジュールが組めないのは当たり前だ。超過密日程になることを当然とし、改善しようとしないのはなぜだ。
春夏とも高校野球の全国大会というものは歪としか言いようがない。他のスポーツでは考えられない何から何まで異様な大会だ。しかも高校生年代の大会でだ。教育上もよくないだろう。ってね。

それもこれも、適正なものに変えようとしない運営組織が悪い。日本高等学校野球レンメイとかいう組織があるそうだが、連中はバカの集団なのか?
将来有望な多勢の10代アスリートの希望と健康を損なって、平気なのはどうしてだ。
まぁ、理由はある。
この組織は戦前の組織である。結成は敗戦直後1946年だが、大会は大正時代に始まっている。そして教育の組織などではない。

もともとは新聞社が販促のために野球大会を開催した時に作った運営組織であり、学校教育とは無関係。収益事業として学生・アマチュアの野球大会を運営している「公益財団法人」つまり会社の一種だ。地方大会を運営する都道府県の高野連も同じことだ。
だから歪なのである。前例にこだわり戦前的規範を良しとする固陋な組織なのだ。甲子園での大会ありき、これが高野連の核となる。甲子園ので集中開催で試合数が多いほど儲かる。儲からない改革はやらないし、前例にないことはしない。よって、スマートで健全で皆が納得するだろう公平性の保たれた大会形式を採用することは絶対にない。以下のよーなやりかたのことだ。

まず、春開催の場合、効率と経済とプレーヤーの健康管理から考えたら、秋のうちに選抜代表が地方・地区大会を行なって、決勝大会(つまり甲子園出場)は全国ベスト8からで充分だ。ベスト8、ベスト4、3位決定、決勝と1チーム最大で3試合。ベスト8で負ければ1試合でおわり。ゲーム数は全部で8。休養日を挟んで6日で大会は終われる。肝心なのは試合間隔を平等にし、休養日を必ず与えること。ここから始めなければならない。
なのになんで1会場で60ゲーム以上行う必要があるのか、誰かわかるように説明してほしい。(スポーツ大会としてはありえないことを収益事業だから押し付けているということだが)
だいたいタイガースが高校生の野球大会ごときで、オープニングゲームをホームの甲子園球場で開催できないなど、我慢できん。春の大会は6日で終わらせるべし。

そうだ、いろいろ書いてみたが、こういうことである。
小学校低学年の時に江夏がオールスターで9連続奪三振。それを見た瞬間、「自分は生まれながらのタイガースファンだ」と、記憶を己で改ざんしてから、夏の甲子園なんてものは阪神タイガースにとって迷惑な存在、必要悪程度で許してきた。

ところが、ココ20年。正確には85年の阪神優勝以後なんだが、夏の甲子園は存在自体が許せなくなってきた。
なんとなれば、地元の高校野球部が甲子園に出るとか勝つとか、そんなのは阪神が4月から10月まで勝ち続けることに比べたらどうでもいい、なくても良い。無に等しい。
そう、甲子園大会はやんなくてイイ。
阪神タイガース優勝で私がわかったことである。
シーズン通してタイガースとともに過ごす。これが一番。

優勝以後、夏の大会を冷淡に見るようになったら、「許せなさ」は年ごとに昂じてきた。
もはや開催どころか大会の存在も許せなくなり、高校野球の変化の無さを絶望しつつも、オイラ一人でも廃止を叫び、将来有望なハイスクールの運動部に所属する野球の好きな人々を廃人に追い込まないよう、全力を尽くしたいと。結構真剣に思っている。
いい加減10代のアスリートを潰すような大会は止めろ。いますぐ。
と、かなりまじめに思っている。もう止めるべきだ。夏の大会なんて。

断っておかなくともわかると思うが。私は野球をやっていた。が、上手くもなく馬鹿でもアホウでもなかった。
甲子園出場が唯一無二の目標。聖なる地。とかそんな考えで野球をしたことはない。野球は見るよりやるほう〜が当然好きだ。理由はやはり面白いからだ。わいわいガヤガヤと賑やかにやりつつ局面では真剣になっちゃう面白さ。ベンチでは緩んでいても守備の時は集中してないとけがをするしね。

そして、たいていの人もそう思っているだろう、甲子園に行くのが目標で野球をやるというのは、間違ってる。
いや、野球をやるからには甲子園を目指せ、目指す。がおかしい。野球少年だった頃も、そういうのは馬鹿だと思ってた。今もだが。

野球、いやベースボールやろうよ。いっしょにおもしろいやつをさ。
それは不まじめだとか言われた。甲子園目指すやつらはベースボールという正式名称すらを嫌がってたな。

だいたい神聖なグランドに礼!とかなんなんだよ。
野球は本来芝の生えたフィールドでやるもので、芝のない地面(グランド)は二流以下なんだって。地面なんかを有難がるのもおかしいが、拝ませる指導者・監督、コウコウヤキュウが大嫌いだ。

さて夏の高校野球はというと、私のプランでは廃止である。次のように装いを新たにします。
地区ごとのリーグ戦上位による地方ブロックの選抜リーグを経て順位をつけて、シーズン中一番コンディションの良い秋に決勝リーグ(全国大会)を行う。これで逝って下さい。夏はやめてください。お願いです。
言うまでもなく甲子園は貸しません。ヤクルトにお願いして神宮でやってください。

どうしてもお盆の時期に高校生の野球大会をやるというのなら、百歩譲って全国決勝大会(参加24チームによる4チーム6組総当りの1次リーグ、ベスト8からトーナメント)とし、東地区は宮城、東京ドーム、神宮、横浜で行い、西地区が福岡、広島、京セラ、甲子園で総当りの1次リーグを6月から7月の週末に行います。東西4チームずつ8チームが勝ちあがり、トーナメントを行う。決勝1ゲームは東京ドームと甲子園で交互に開催する。ここ重要、7月からの決勝トーナメントはすべてのゲームはナイターで行うこと。これは絶対である。

次回要領をもう少し詳しく述べる。

「そして毎日あなたを思った」山口由子

1969年生まれの山口由子
1968年生まれの鷺沢萠
まぁ年齢が近いだけで関連はないのだけど。
1年のうち2回ほど一定期間ハマる。
とうことでは、私にとっては共通点がある。


以前は30歳過ぎてからの少ない作品、「さいはての二人」、「失恋」、「ウエルカム・ホーム!」を特別な思い入れもあって好んでいたのだが。
「ウエルカム・ホーム!」は特に男の描き方が素晴らしく、なんでこんなに男の子どもから中年男まで自在に書けるのか?驚嘆しました。
実際読んだのは彼女が死んで後のことで、だからよけいショックでもあった。
この晩年の作品からは、彼女の死を嗅ぎ取れるようなものは欠片もなかったからね。
今丹念に読めばなんか気がつくかもしれない。などと思うのは不遜か。
しかし、惜しい。つくづく惜しい。

http://www.alao.co.jp/2004ArchivalDairyAlaoYokogi/SagisawaMegumu/image005.jpg
去年の晩秋は20代前半のエッセイと「帰れぬ人」、「葉桜の日」、「駆ける少年」を寝床でずーっと読んでいた。これら一連のだいたい10代、20代そこそこの若者たちの物語は、バブル崩壊前夜から祭りのあとの余韻を背景とし、まだまだ少年少女でしかない主人公たちの「その日暮らし」を描いている。


馬鹿くさいバブリーな大人社会との対峙の仕方、少年たち、少女たちの社会との距離を的確に描き、うまいなぁ、よくわかってるな(エラそうですまん)そして風俗小説としてもおもしろい。
生まれたのがちょっと「遅かった」、祭りの傍観者。世の中バブルだっていうけど、なにそれって感覚のズレ。
こうした90年代前半の時代の空気を吸った経験があるものには、再読すれば何かしら思い当たることが見つかるし、小説を読みながらいつしかあの時を事細かに思い出す事にもなる。
鷺沢萠の初期の作品は、その意味では「この時の私(たち)ってこうだ」という時代の断片を描いた一種の記録で、書かれるべくして書かれたものといえる。まぁ、一般的な評価はどうなってるのか知らないが。
とにかくいろいろと思いだされるし、こちらの記憶を呼び覚ます効果があっておもしろかったし、悲しくなった。



閉店したあと徹夜でだらだらする。朝まで飲んで始発で大学へいく女の子。
はしごの最後はいつも同じ友だちの部屋。男も女も雑魚寝して部屋の主が玄関廊下で寝る。
朝方寒いからと横で寝ている男子のコートを奪い、そのまま拝借して学校へいった彼女。
明け方に気絶するようにダウンしても9時の目覚ましでバイトに行くヤツ。
別れ話の最中の二人がばったり鉢合わせしても無関心で見守るオレたち。


確かにみんなこんなだった。いまだ自分がなんなのかを知らないが、オレも君もあの子もこの世にたった一人。とりあえずそれで十分だ。
どんなに毎日つるんでいても、わかっているのはある日を境に別れるってこと。
自然にそうなるだろうと思いながら、日々を過ごしていた。
まだ何者でもない一瞬を一緒にいたこと。
そんなことの多くがうまく描かれているのが、初期の小説なんである。


20代前半の余計なものをそぎ落として作られたドキュメント風の硬質なものに比して、30代に書かれた小説は、色いろ含みのある恋愛ものであり人情モノといった「物語」にたどり着いていて、抜群に面白くなっていたのに。
人情モノのさまざまなバリエーションをずっと読みたかった。


さて、山口由子ですが、山口由子といえば「Believe」(1999年)か。
そうなんでしょうが、個人的にBelieveが出る前の、アルバムで言えば「Fessey Park Rd.」(1998年)が好きなんである。ジャケットがいいのだよね。
いまどうしてるんだろう。というわけで、これ。
Believeも出しておきます。

アルバムは重ねて言うが「Fessey Park Rd.」の明るくポップなのがいい。

フェッシー・パーク・ロード

フェッシー・パーク・ロード

うむ、やはり多軌がでてくるとうれしい。


いやなこと、後回しにしたいこと。なかったコトにしたい気がかり。
クソいまいましいことどもなど。
重なるときはドバっと続いて、ケチャップ出ました!みたいな1月だった。


イライラ。いらいらいらいらいらいらいらいら。
旅に出たかったけど、それをやっちゃお仕舞よ。と思う事ができたので、つかの間の逃避に「夏目友人帳」を見る。この際なのでブックオフをハシゴしてコミックも購入。


去年GyaO!でTVシリーズを無料放送してたのを拾い見してました。今回いらいら解消、現実逃避のために「参」「肆」を通しで見て、いわゆる「夏目友人帳の謎」は解明も説明もなく一応の最終回となってしまったので、覚書として整理してみる。

まず、「謎」とは。原作漫画とそれをなぞるTVシリーズでも基本設定なのだが、特に説明なしのもの。つまりなんでそうなってるのかという基本の謎。
それと、それぞれのキャラクターにまつわる謎。由来のエピソードが語られてないために謎となってるもの。
たとえば、ニャンコ先生・斑はいつから封印されていたのか。なぜ招き猫に封印されたのか。誰によって?とか。
付随して、ニャンコ先生になる前の斑は、夏目レイコとかなり接触があったと思われるが、それは封印前の話しでなければならないし、斑封印事件とレイコは関連あるのか。とか。



夏目友人帳」では、妖は自然に存在するものとなっている。
しかし、普通は見えないので「普通に自然に存在する」ものとは違うものでもある。
登場人物は見える者と普通の見えない人に別れる。
見える者には普通でない力があるということになっている。しかしこれも強弱のある力とされていて、かつて見えていたという人物もでてくる。
また、見えないけれど妖の気配を「感じる」程度の人物もいたり、呪術(の力を借りて)によって見ることができる人もいる。
さらに、力の強い妖は見えないヒトに姿を見せることができたりするが、場合によっては見えない普通の人に「見えてしまう」現象も起こるというエピソードもある。


この力を夏目貴志くんは生得的に持っていて、血筋で受け継がれる類のものである。しかも初めから強い力を持たされている。
この力は夏目レイコから受け継いだもので同種、同等のものだ。と考えていいだろう。
おそらく、想像だがこの力は妖になる力か、そのものの力だろう。単に見えるだけのものではなくて、普通妖同士で行う名前を預ける契約をも可能とする力ではなかろうか。
ニャンコ先生に限らず、妖=妖力は「友人帳」を利用することができる。ということも考え合わせると、レイコの力は妖力に違いなかろうという理屈。つまり「友人帳」は妖が自ら本名を書くことで主従契約が発生する仕組みの元には、妖かしの力があるだろうと。

その筋で考えれば、レイコの力によって作られた友人帳を使えるのは夏目貴志だけ、という結論なのだが、どうだろうか。


謎はまだあり、考察は続く。予定・・・。

戻れない風景1


あの日の1年前の青空。戻れない空気が見えてくる。


2010年2月2日9:40





2010年3月3日13:00



地図を持ちホリゴミくんと町並みの調査をしていた頃。
完全に戻れない風景


2010年3月19日12:32


1ヶ月前。

こんな写真を撮った。
まだたくさんある。
冷静に見ることが、少しできるようになった。


2011年2月16日

貴重な映像を半永久的に共有

かつてYouTubeにアップされたが削除された映像の数々をアーカイブ
大変貴重な映像がパタパタと削除されてる。
過去このブログで引用した西田佐知子とかちあきなおみとか、もうない。
別の映像はあるのだけれど、記憶と一致している意味のある(私にとっての)貴重なものなので選んだわけで、前はあったのに今はないというのは口惜しい。
やはり横着せず手間ひまかけてセレクトしながら、一つ一つを保存しておかなければならないということだろう。
そこで、Deleted Tubesだ。

話は飛ぶけど、カラー35ミリフィルムのカメラが普及し、バシバシ日本中であらゆるものが撮影され始めたのが昭和30年代。とにかく家族などの被写体とともに、ありふれた街角や路地、約60年前の家屋や室内が背景として連綿とそこに写っている。
こうした写真がどれほど風俗資料として価値があるか、社会学の資料としてどれほど貴重なものか。
50年前のどうでもいいような田舎の観光地、しけた温泉宿はもちろん、わざわざ写真に撮って記録を残しておこうなどと考えもしない、赤ちょうちんでの乾杯シーンとか、孫や子供を連れて出かけたデパートの屋上でのスナップには、重要な情報が写り込んでいるのだからして。
どんな服を着てたか、何を飲んで何を注文してたか。男女の割合組み合わせは、年齢は。そして飲み屋の壁に貼られたメニューとその値段は。
かつてあったデパートの屋上とはなにするところか。アドバルーンとはどういうものか。アーケード型のビデオゲームが出現する前、子どもたちにはどんな遊戯、遊具があったのか。
そろそろ忘れてきていることばかりである。
すべて家族のために撮影された写真にちゃんと記録されている。
こうした写真は父ちゃんがとったものが殆どで、悲しいかなだいたい父ちゃんは母ちゃんより先に死ぬ。そして古い写真を愛し保存してきたのは、これも父ちゃんなので、彼らが死ぬと古い写真に愛着が薄く(薄情な)母ちゃんはそれら(学術的価値のある)風俗資料の山をだいたいゴミとして処分する。
母ちゃんは自分や家族のバストショットを価値あるものとし数枚残し捨ててしまう。
知らない人が写ってる温泉場の風景など無価値。

これはたまらん。日本中いたるところで毎日捨てられてると思うとね。

自分が死んだあとの写真の行方を心配しても仕方がない、ともいってられない。
今年はだから捨てられそうな・削除されそうなYouTubeの風俗資料を保存していくことに力を注ぐことにしたぞ。
特に日本歌謡史を中心に。
ということで、これどっかで取り上げたような気がするけど、しかも歌謡史とも違うし。

映画「放課後」(1973年)のエンディングとのこと。
このては削除かからないようだが、保存しとこう。

長が〜い黒髪。ちょっと開いたままの口元(しまらないわけじゃない)。
スラっとし過ぎないボリュームを残したままの太ももとか。
美人じゃないけど目をそらせない顔立ち。
テニスシーンはどうでもいいけど冬服のセーラー服姿こそ、栗田ひろみ
こうしたものを再発見できるネット時代に個人的に感謝し、共有財産として大事にしましょうよ。

はてなダイアリー10周年おめでとう!


さてさて5年も利用しているとは。
そのわりに年に15日弱しか書かない、ダメなオレ。
アクセスカウンターを見れば、46000って数字が。

にもかかわらず、友だちはいない。
いったい「はてなダイアリー」を何のために利用してるのだろう。


そもそも他の人の日記みないし。
星もクリックしないし。
時たま星をいただいた時に訪ねて行って、お返しにつけるかといえば、
それもしない。
何度目かじっくりみたところで、星を頂いた方々に誠実なきもちでポチッと押した。

そうそう、去年の秋、iPhone5が出る直前のタイミングでiPhone4sに替えた。
ソフトバンクじゃなくau
5年ほど前に二つ折りタイプの携帯電話を捨て、ソフトバンクプリペイドiPod touchの組み合わせにし、十分満足だったのだが、機体はボロボロになったし、バッテリーもヘタれてしまったので、ようやくiPhoneにする時期が来たと思った。
プリペイドの番号はなぜか同じキャリア内では利用できないそうで、つまりMMPしないと番号は変えられるは、割引もないわで使えない。auにMMPするとキャッシュバックが2万円だかつくので32MBのiPhone4s本体がまぁ半額?みたいなもんなのであった。当然auにするわな。

プランSシンプルという2番めに安い契約だが1万円まで無料通話分が繰り越せるため、普通に使っても一度も無料通話分を超えたことはない。
電話としてならどうしようもなく高い料金だと思うが、電話機能はホントのところiPhoneの機能のごく一部だからして、ちょっと高いかなぐらいだと思う。
touchはGPSが使えない(使えないわけじゃないのですが/iPod touch 5 に、GPS機能を付けてみました【Bad Elf GPS】 | あなたの愛車をもっと美しくします-佐賀県のカーケア屋さん)ので、iPhoneにしてからMAPの利用頻度は高い。
なので初代touchから愛好してるものとすれば、GPSが装備されればiPhoneなくてもいいやと思う。


しかし、写真はとったその場でクラウドDropboxとか)やインスタグラム、フェイスブックに送れるのでiPhoneのほうが使い勝手は良い。
とゆーうことで、今年の目標は「はてな」に写真をたくさんアップするぞ。
なんのため?
多くの人に見てもらう?
そんな気はないのだ。
ポイントポイントで写真記録を残そうとかと考えている。
つまり年取ったせいだとも言えるし、震災後の身の回りの風景が震災前と同じには見えなくなってしまった自分のためである。
そう、自分のため。

 今週のお題「受験」

今週のお題「受験」に挑戦してみた。


高校三年のときに共通一次試験というのを受けて、足切り食らうのは目に見えてたので、二次試験はスルーした。
高三の1月。寒かったのぉ。故郷は。
で、共通一次を終えたあと、高校に授業を受けに行った記憶が無い。
おそらく少しくらい、数日、週に二日くらい?いったはずだと思うのだが。ほんとに記憶が無い。はっきりいってまったく予備校みたいな高校だったので、高三の三学期は受験のために出席しなくてもお咎め無しだったようーな気がする。
まぁおぼえてないのではっきりしないが、共通一次の後は受験勉強と受験準備ということでほとんど自宅にいた。それで「笑っていいとも」を見てた記憶が蘇った。

さて、1月の末、
最初の私立大の受験のため東京に出かけた。
新幹線開通前年だったと思う。特急に乗って。
東京タワー近くのビジネスホテルが田舎もんの受験生を割安で泊めてくれた。まだ明るいうちにチェックインしたが、ホテルの部屋ですることがない。
受験生なのでどこか行くとか見物するなどの余裕はない。
今思い出したが朝食券をフロントで受け取ったのだから、1泊朝食付きのサービスだった。だから夕食は自分で摂ったはず。しかし、到着から夕食までの記憶が無い。おそらく駅弁を東京駅で買って部屋で食べたのだと思う。
こういった10代男子の傍目には滑稽な物悲しさと要領の悪さは、涙モノである。いつからハッタリが使えるようになり、他人の目を無視出来るようになり、偉そうにヒトにものを頼めるようになったか。
それは、その後女の人と十分付き合えるようになってからだと思う。


だが、18歳の受験生はホテルで夕食を頼むとか思いもよらなかった。ましてや、たった一人でラーメンを食べに行くことも出来なかった。
することもなく、家にも電話せず。部屋の中でじっとしていた。
そして、8時を過ぎても9時を過ぎても11時なっても人通りも車の量も減少せず、店の看板も煌々と輝く東京の街をホテルの窓からぼやんと眺めていた。


前泊で受験に臨んだのだが、試験勉強などやる気も起きずしばらく外の夜景を眺めているしかなかった。
一人つくねんとしているうちに、身体にまつわりついていた田舎の空気が離れていき、東京の空気に入れ替わった気がしてきた。だからどうということもないのだが、なんとなく気分が軽くなった気がして、街路灯の明かりの中を行き交う東京の人達に近づきたくなり、ホテル前の通りに出た。
受験生が11時過ぎに外へ出ようとしても、フロントの人は目の端に私の姿を捉えただけで無関心であった。
ホテル前の通り100メートルほど行っては戻るという、なにをしたいのか全くわからない、意味のない行動を地方都市の少年は繰り返した。


少し先に地下鉄の入り口があり、そこは交差点で角には書店があった。まだコンビニなど普通にある頃ではなかったからか、書店はまだ開いていた。
書店の明かりと地下鉄入り口の明かりに照らされて、女の人が一人、つづいて3人組みの大学生のような若い女の人たちが歩いてくる。
そこでふらふらしてるだけではダメだと思い、目的があるように歩くため、書店を目指した。田舎っぽい高校生がどんなふうに歩いていようが、女の人達は気にするわけないのだが、18歳のわたしの自意識は過剰だった。
こんな時間に一人で歩いている自分には、本屋に用事があるのだ。そうカッコつけなければその場にいられなかったのだ。悲しい。けど笑っちゃうよね。

それで、本屋に入ればこんな時間に来たのだから明確な目的がなければおかしい。でなければ店員が胡散臭く思うと、そこまで自意識過剰だった自分がなつかしい。しかし、滑稽だな。

購入したのは「週刊プレイボーイ」と懐かしや「GORO」の雑誌2冊。何やってんだ、おれ!

その後大学生になったオレなら、その雑誌は部屋に捨て置く。ところが受験生のボクは、ホテルのヒトにあいつこんなの買い込んでと笑われるのを恐れ、バックに入れて持ち歩き、ようやく捨てたのは故郷の駅のゴミ箱だった。



2月中に2つ東京で受験するため再上京した。高田馬場で試験を受けたが、そのときは一人でホテルというのがあまりにもすることがなく、というか何もできないチキンな自分に嫌気が差して、田無の親戚の家に泊まった。
親戚には、初回の受験を一人でホテルから受けに行ったというのが、妙に話題となり大したもんだとほめられて赤面した。ただ、ほめられたからじゃないが、少し一人きりという状況にも慣れ、度胸はできた。
それがいい方向に行かないのが男子高校生というもので、田無の親戚の家からまっすぐ、同志社を受けに京都にいったときは、新幹線のビュッフェで女子大生ら(京都の大学)に声をかけられて大胆にもまともに受け答えし、聞かれもしないのに受ける大学を喋り出した。
「まぁ、それじゃ春から京都でうちらとおなじ学生さんね」
などとおだてられて舞い上がった。
すっかり春から京都のとあるキャンパスを歩いているハズと妄想が膨らんだ。
ホンモノの女子大生と会話したことで、大学生っていいなぁ、特に女子。と、飛躍してしまった。それ自体悪いことではないけど、悪いこともしてないけど、世の中、受験というものは甘くはない。同志社の試験は散々であった。舐めてた自分を反省した。
舞い上がったがすぐ墜落。春から京都で学生生活を送ることはなかった。


私の受験の思い出は、二つ歳上の京都の女子大生らと話したこと、か。
いや、ひと目を気にしすぎの少年が、はじめてクラスメート以外の同世代の女の子と話をして、大げさに言えば自然と家族から離れていく、親との距離のとり方を意識し始める、はじめのきっかけだったかもしれない。
親兄弟、幼稚園から一緒の田舎の友達などは、記憶の始まりからいた。しかし、これからはそうではないヒトとばかり、生い立ちに共有するものがなく当然親兄弟など知りもしない目の前の一人と出会っていく。そういうことの一番初めだったのかと思う。