鷺沢萠、今考えなくてはならぬこと

さて、自分の中で好き嫌いを考えるとき、あまり深く考えずいいと思ってる場合ばかりだ。嫌いなものには理由をつけやすい。また食わず嫌いってのもあり、これは端から拒否して気に病まないものも多い。
こんなブログで好んで嫌いなものを取り上げてケチつけるようなことはしないわけで、じゃ逆に、何で好きとかいいとか、具体的に述べてないものをさらすのか。と、少しこのところ考えました。
そういうのは理由を自分なりに書いたほうがいいんじゃないか。


映像と音楽を単に拾ってきて、これいいです。とは、表現者にたいして失礼というか、どこがいいのかはっきりいえないないなら、いいとはいえないぞ、という表現者の腹立ちに思い至ったというか。


これもね、ひじょーに適当、いい加減さなのだけど、この数日鷺沢萠を読み返してたのが原因で、彼女が2004年に死んで以降、ずっと気になっていたのに。そのままにしてたし、むしろ避けてたね。そして何もなかったかのように、何も考えずに、いいとか悪いとかいってる自分が、またここにいる。
自分をさらして書け、これはいいと。
じゃないと「私の話」鷺沢萠著は読めないでしょう。(と読んでから気づいた、気分が悪くなった)


彼女の死をぼくがどうこう言っても仕方ないでしょ、というのは口実。気にしてたのは他ならぬ自分であって、鷺沢萠の死はそれに衝撃を受けた自分と、その後の目を背けた自分とをつなぎ合わせるという、自分の問題なんです。

まったく、読まなきゃよかったよ。でもいづれカタつけなきゃならない問題なんだ。
ぼくにとって鷺沢萠ってのは、ある分野の女性の物差しであった。というのをはっきり思い出したわけです。
現代女性ブンガク者(女流小説家または女のもの書き)に加えて現代女性の才能・能力・タレントの標準軌鷺沢萠で、それは容姿ももちろん含む。


長くなるな。整理してから続きにしよう。
考えなきゃならないことは、こういうことだ。
何かよく知らない女性の才能が現れたとき、比べるために秤の片方にいつもサギサワを乗せてた。なぜ鷺沢萠なのか、彼女は何なのかお前は知ってるのか。適当に使ってんじゃねぇーよ。って彼女の声が聞こえるでしょう。
彼女が死んで以後、それを考えても見なかったのはまずいな。と思った。


それでは、考えをまとめるまで、何もいわずに、この2つを。
といいながら、いいと思っていることの根拠を示すのは難しいね。
二つともほぼ同じような構成のPVで、同じように前を向いて歌う姿とイメージシーンが交互する。
次第にイメージと歌う姿のカットは溶け合っていく構成だ。
いわゆるラストシーンは、糸を切られたマリオネットは大事なケースから姿を消し、心配そうな初音ちゃんの背後を誰にも操られないで、マリオネットはおそらく外へと出て行く。


奥村初音 「ホントはね」


柴田淳のラストは「消えないで、ほほえんでいて」「いかないで、遠いところへ」
「ぼくの味方でいて」、と歌うにもかかわらず、みんな消えてしまう。
そして、たぶん、柴田淳自身は、必要な誰かのところへ行くために。
待ってないで、行かなきゃ。とぼくは感じる。


柴田淳 「ぼくの味方」