藤圭子とそのソウル(魂)のことについて、思いつき。

この人藤圭子についてどういう女かは、ここではいいでしょう。ただ、岩手一関に生まれ、北海道旭川で育った北国の人なのである。さらに付け加えれば、両親が浪曲、三味線の芸人で旅暮らしという、明治から昭和初期で途絶えてしまったはずの「近世」的な環境の出自を持ち、本来地理的にもローカル、時代的にも相当ローカルな彼女が「新宿の女」で18歳でデビューした。


そんなわけで、デビュー当時の藤圭子が見た目も歌もかなりシュールな印象をまとっていたことの理由にならないか。


シュール(なんとなくリアルじゃない)・・・この女どこにいるの?というのが幼い私の印象なのだが、とにかくありえないような、異常な美しさを持っていた。


美人とか美形、映画女優のよくある整った美しさとはまったく違う別次元の美しさというのだろうか、うまい表現じゃないけど「見ちゃいけない」美しさ?
それは、突き詰めるとたぶん、藤圭子のその後の人生から後付のようにとられるだろうが、ある種の「どうしようもなさ」なのだと思う。


90年代テレビにたまに出ていた(引退して復帰した)藤圭子はテレビで歌い、トークで笑っている。そんな様を見ると、ぼくなんか「憑き物が落ちた」と思わずにいられない。
70年代の20代の藤圭子はとにかく他に類のない歌手だった。(その後もこんな歌手はいない)

彼女の「どうしようもなさ」とは、ビックヒットを歌う自分と「近世的」なルーツを持つ自分とのあまりにもかけ離れた現実に起因する(のじゃないか)。
テレビのこちら側のぼくたちは、藤圭子の現実の離れ具合が「現代的」枠をあまりにも超えているため、「どうしようもなく」映ってみえた。

それはいまだに分かり合えない、これからも理解することのない藤圭子と現代的現実しか知らないぼくらとの「どうしようもなさ」が、それこそ目が釘付けになるような「美しさ」を作り出したのだと思う。


つまり、70年代当時、ぼくはどうしようもない魅力を藤圭子に感じていたのだ。
レコードが欲しいとか、ヌードが見たいとかそういうのじゃなく、しいて言えば「夢の中で会いたい」という、どうしようもなさである。


*1970年 「圭子の夢は夜ひらく」 NHK紅白歌合戦