お経みたい、辛気臭い歌と西田佐知子は言った。

歌いやすい歌じゃないのに。好きでまるごと覚えた歌でもないのに。
あるとき突然頭の中に歌詞とメロディーが流れ始め、独り言のように口ずさむ。
そんな寒い歌。
なんか嫌になっちゃう歌が「アカシアの雨がやむとき」なんですが。


そんなのが他にもいくつかあるのだが、なぜ突然歌ってしまうのか、その原因は不明。
原因を探ろうという気も起きないし、知りたくもない。


そして、この歌に反応する自分のビミョーな部分を分析などしたくないね。


関口宏と結婚後はほとんどテレビに出ることもなかったため、TV出演の映像がほとんどない、幻の歌手。
結婚が1971年という時期だから幻にならざる得なかった。60年代、テレビは生放送主体。映像が残らないのが当然だった。
しかし、貴重なビデオがやっぱりアップされてる。

上は削除され逝ってしまいました。↓をご覧下さい。

50秒程度の短いものだが、充分だ。*1
思い出した。
こういう映像がネットにあるというのも個人的にどういうものか。
ありがた迷惑。感謝もしたいが、そっとしといてくれ。
なら、見なきゃいいだろう。ということになるのだが。


いま、元気を与えるとか、勇気をもらったとか、がんばろうとか。
いいことだし、なにもしないでいるわたくし、なんかスポイルされるはずだ。


だから、そんな今の感じだから、「アカシアの雨がやむとき」が頭の中に流れてきたのだろう。
この歌って、歌詞がまず良くないでしょう。こんなこと今歌っちゃったら。
しかも、結構な美人がほぼ無表情に、面白くもなんともなく唄うのもマズい、そうだね。
だって、(100歩譲って象徴的にしろ)死んで抜け殻になった「わたし」は消えていく。魂かどうかもわからない淡い影が当てもなく彷徨い遥か彼方へ飛んでいく、歌だから。


自分のタマシイの光の当たらない半分の「闇」が、この退廃的(頽廃)、虚無、デカダンに反応するんだな。
投げやりで、嘘つきで、テキトウで、倦怠、荒廃、不毛、軟弱、無気力な穴があったら入りたい自分が、囚われている。そう。思い出した。
30年ぶりくらいで見た「アカシアの雨がやむとき」を唄う西田佐知子(←限定)は、虚無の国の女王で、少年だったわたしはそのオーラにひれ伏したことを。

*1:削除されたビデオはカラーで西田佐知子の美人ぶりがよくわかり、かつ虚無的という形容を目の当たりに出来るものだった。合掌